NUMBER GIRLと僕の17才
NUMBER GIRLはたぶん、僕の高校時代の全部と言ってよかった。
それはオルタナティブロックとの出会いで、人間4人が鳴らすロックサウンドとの出会いで、当時17才だった僕にとって実存主義的な思考との出会いだった。
言葉で書いてしまうのも虚しいほど、高校生の僕がNUMBER GIRLの音楽を聴いたことは得体の知れない黒い球体が迫ってくるような、本当に特別な経験だった。
誰がどう見ても、僕の高校時代は恵まれた環境だったと思う。
進学校に通い、家庭的にも経済的にも支障はなく、安全な空間で僕は勉強して、運動して、満ち足りた青春時代を送り、幸せな将来が約束されていた。
日本には戦争もなければ争いもなく、身の回りに喧嘩もない。
ゆっくりと安定して進んでいくエスカレーターに乗りながら、たったひとつ、何かだけが空虚で、僕は無性な衝動を何かにぶつけたいと思いつつも、その衝動をぶつける先もなく、取り憑かれたようにレンタルCDショップに通っては音楽を聴いていた。
今思えば、僕はロックがしたかった。
セックス・ピストルズみたいに、何かを取り返すために歌いたかった。
ロックはメッセージを伝えるための音楽だ。
幸せで、食べるものに困らず、寝る場所に困らず、何の問題もない。
こんな平和の中で僕が敵対するものはない。
そんな中にいる自分って何だろう。
自分は何を考えて生きてるんだろう。
野良猫は何を考えて生きてるんだろう。
自分は社会にとって何だろう。
社会にとって自分は何だろう。
そんな自問自答。
そんな自問自答も、どうせいつか忘れて安心して幸せになるんだろうなという不安。
誰が聞いても笑うような、こんな幸せな悩みは今思えばないんだろうけど、
自分がなくなっていく気がしたのは確かだった。
でもNUMBER GIRLの曲を聴いているとそんな自分も肯定されている気がした。
たぶん、これはNUMBER GIRLが好きな人にしか分からないと思う。
自分がないがしろにされていること、自分は何かの外側にいるんだろうなと思ったこと、それを吐き出すこと、今思えばNUMBER GIRLは初めてのオルタナティブロックだった。
群馬の片田舎で日常を送る僕が友人から借りたNAM-HEAVY METARICをラジカセに突っ込んで再生ボタンを押した時、時既に遅くNUMBER GIRLは解散していた。
CDの中の存在として、その鋭く尖った音は僕をグサッと差し込んだというより、時間をかけて緩やかに僕を侵食し、気づけば、
大学受験が終わり、
大学生活が終わり、
就職活動が終わり、
僕はその頃、想像していた社会の中にいた。
NUMBER GIRL再結成の知らせは、たぶん一部の人にとっては、喜ぶとか喜ばないとかのものじゃない。
僕はNUMBER GIRLを見たことがない。
「ナンバガの野音当選したよ」と言われても心のどこかで見たくないとすら思っていた。
もしかすると、自分の中だけのものにしておきたかったのかもしれない。
僕にとってのNUMBER GIRLはみんなで肩を組んで大合唱するような音楽じゃない。
当日になっても、僕はライブから目をそらすように映画を観ていた。
お金を払って、それに見合って提供されるエンターテイメントが終わって、
これから見るライブだって、同じはずなのに、何か触っちゃいけないものに一歩ずつ向かっている気がした。
会場に到着しても、ライブが始まるまでの間も、これだけ大勢の人たちが心待ちにしているのが不思議で仕方がなかった。
楽しそうにしている人もいれば上の空でステージを見つめる人もいた。
ステージセットの前に4人が並び、曲が始まって、僕は終始、呆気にとられ、この曲のこの歌詞の時、ここを歩いてたなとか、この曲を聴きながらあの事を考えていたなとか、思い出してちょっと泣いていた。
暗闇の中でアンコールがかかっている時、ここにいる人たちも一個人だったんだろうなとようやく分かった。
NUMBER GIRLはこの後、全国ツアーをするらしい。
こんな特別な時間を過ごす人が、1人も漏れずに行けたらいいなと思う。