新譜完成まで、小山目線
ここ1年くらいのことを僕目線で。
THIS IS JAPANの新譜、WEEKENDERが11月27日に発売される。
アルバムの準備を始めたのは去年末くらい。
いろいろと経緯があって、僕らは1〜3月にかけてフルコーラスのデモをひと月10曲ずつ、計30曲作ることになった。
オルタナだオルタナだと騒いで、爆音ギターまっしぐらに前作FROM ALTERNATIVEを作ってからのこと。
正直な話、何がお客さんにとって良いか、ディスジャパにとって良いか、そもそも僕らは何がしたくて、何ができて、何が売りで、今後どうなりたいのか、
煮詰まってたというよりも、たぶんメンバー4人の気持ちがちょっとずつバラバラで、話し合うことは多かったけど答えは出ない、モヤモヤした状態が続いていた。
僕は元々、杉森さんにバンドを誘われてから、初めの頃はやりたいように曲作りしていたけど、いつしかこれはディスジャパじゃできないな、なんて考えて、最近はTHIS IS JAPANというバンドに楽曲提供する気持ちでやろうと、曲を作っていた。
それは一方では正しいところもあったけれど、たぶん、THIS IS JAPANがどんなバンドか理解した気になり、僕がどんなギタリスト なのかも理解した気になり、うるさくて、ドラムがエイトビートで、杉森さんがシャウトしてて…と決めつけているうちに、聴いている音楽の中に見つける面白いアイディアも、これはやっちゃダメだろうなんて考えるようになって、首が締まっていた。
つまるところバンドの、自分の限界を自分で決めていたところがあった。
たぶんそれは僕の曲、杉森さんの曲どちらにも言えることだったけど、僕は極端だから、じゃあこうしようと自分で決めると止まらなくなる。
30曲デモを作ることになって、僕は半ばヤケクソにTHIS IS JAPANというフォーマットは取り払って、やりたい放題作ることにした。
川村さんはその時の僕は怖かったと言うけど…
でも、THIS IS JAPANで演奏したらどんな破茶滅茶な曲だってバンドのものにできるだろうという不思議な楽観もあった。
水元がベースを入れれば水元っぽくなるし、川村さんがドラムを叩けば、杉森さんが歌えば、なんとかなるという自信があった。
今年の正月、群馬の実家に帰って、リビングから離れた和室に父親が持っていた安いエレキギターを持ち込み、こたつの上にパソコンと小さなリズムボックス/サンプラーを並べ、血眼になって曲を作った。
家族からしたら実家に帰って来たのに何やってんだと思われていた気がする。
年越しそばを食べて、紅白歌合戦をちょっと見て、また部屋に戻るみたいな事をしてたから。
僕が勝手に決めつけてたこと。
バッキングギター、リードギター、ベース、ドラムの編成。
一回無視して、シンセサイザーのフレーズとか、クラップとかシェイカーとか、今まで見てなかったものを主眼に置いてみたりして、頭の中に一瞬現れては消える良いアイディアの端っこを掴んでは、これじゃダメだと放り投げたりまた拾ったり、ズタボロになりながら組み上げられた曲たちに杉森さんが作った新曲を加え、僕は1〜30までの番号をふっていった。
川村さんが怖いと思ってたのも分かる。
THIS IS JAPANをぶっ壊せくらいのつもりでやってた。
新譜を聴いて、変わったなと思う人もいれば、相変わらずだなと思う人もいるかもしれない。
実は無茶苦茶やった曲たちはそんなに新譜に収録されてない。
今後出てくることもあるかもしれないし、ないかもしれない。
ただ表面に現れてこなくても、THIS IS JAPANの裏側で、少なくとも僕は、ガラッと変わったことが絶対にあった。
もう次の準備をしないとな。