カエターノ・ヴェローゾについて

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カエターノ・ヴェローゾを知ったのは、「ボサノバ界孤高の男」と書かれたCDの帯を見たからだった。ボサノバ界の孤高の男?これは聴くっきゃない。

実際、四ツ谷のブラジルレストラン、サッシペレレでも皆カエターノの名前を出した瞬間に口をそろえて彼は天才だと言う。お店の壁に飾られたブラジリアンミュージック歴代の英雄の彫刻にも、ボサノバの始祖であるアントニオ・カルロス・ジョビンジョアン・ジルベルト、ヴィニシウス・ジ・モライス達と堂々と肩を並べ彫られている。

カエターノは1942年にブラジルのバイーア州で生まれ、73歳になった今でもバリバリ現役のミュージシャンである。今は息子であるモレーノを自分のプロデューサーとして、彼より何十歳も年下のミュージシャンと共に4人のバンド編成で活動している。
もちろん、グラミー賞も取っている彼ほどにもなれば何もしなくても不自由なく生活出来るほどの印税収入があるだろう。普通、70歳にもなったら音楽家としては引退するか、懐メロの人としてかつてのファンを相手にゆったりと地方巡業して過ごしたいと僕だったら思う。それにもかかわらず彼は、彼の現役時代を知らない若者からも尊敬され、ブラジルの全国民に愛されて、なおかつ未だに新しい試みをしている。常に挑戦し続けるミュージシャンであると同時に、恐ろしいほどの求心力がある人だ。

ここまで読んで、既に大方の人に興味を失われているかもしれないが、めげずに彼の功績について書きたいと思う。
毎度の事ながら知識人からの批判を恐れず言うと、彼はブラジルにロックを持ち込んだ人物だ。ボサノバ界孤高の男といっても、ボサノバが誕生し、流行っていたのは1950年代中頃〜1960年代初頭で、カエターノはジョアン達の音楽を聴いて育ったボサノバの次世代にあたる。カエターノが青年期を迎えた頃には、ボサノバは地方の音楽であるサンバを源流としながらも、既に都会的なものとして洗練されきっていた。彼の出身地はリオ・デ・ジャネイロよりも北方の、一説にはサンバの発祥地とされるバイーアの出身であった。
1960年代中頃、ブラジルは軍事政権下にあった。表現を禁じる政府に反旗を翻し、彼はトロピカリアというムーブメントを牽引した。トロピカリアは人喰い運動とも呼ばれる。

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人喰いとは、あらゆる音楽ジャンルを吸収するロックミュージックにインスピレーションを得て、外国の文化を大いにブラジルに持ち込み、自由な表現活動を産もうとするもので、音楽に限らずダンスや美術など多岐にわたって様々な分野のアーティストがこの運動に参加していた。もちろんトロピカリアも検閲の対象となり政府からは厳しく監視された。彼はそれに反抗し、「プロイビーダ・プロイビード(禁じる事を禁じる)」という歌を作り、舞踏やライブを交えた集会を催し、盟友ジルベルト・ジルとともにその運動の中心として活動していたが、結局、政府から目をつけられた2人は1969年にイギリスへ亡命することとなる。

イギリスでも現地のロックを吸収し、皮肉の様に歌い慣れない英語で故郷を歌った。また、1972年に帰国してからも検閲を逃れるためか、比較的前衛的な作品を作ることとなる。

彼の献身によりその後のブラジルの音楽は盛り上がりを見せ、MPB(ムジカ・ポプラール・ブラジレイラ)という日本で言うところのニューミュージックのような多種多様なポップスが生まれた。

彼は何十枚もアルバムを出しているが、自分のルーツであるバイーア州の伝統的なリズムを取り入れながら、ボサノバ、サンバはもちろん、レゲエ、ロック、インド音楽、スペイン民謡などあらゆる音楽ジャンルが交錯し、自由に散りばめられている。

彼は頭からつま先までただひたすらに音楽人間だ。彼の人生とぴったり並行するように、一枚一枚のアルバムが生まれ、その時代時代で彼を取り巻く環境、人間関係と、そこから生まれる彼の心情、興味すべてが音楽で分かる。いつまでも歌うように話し、踊るように歩く人だ。

どの曲も選べないので、あえて彼の曲ではなく、ブラジルの第二の国歌と呼ばれる「ブラジルの水彩画」を表現活動が禁じられている真っ只中で悲しくも暖かくギター1本で歌うカエターノで締めたい。