ポストパンク少年の作り方

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前回の続き〜
 
 
僕がパンクロックにのめり込んでいた時期はいわゆる思春期と重なった。
 
生活態度は変わらずいたって真面目で不良という訳でもないのに、大人が困るような発言をわざとしたりして、教師からしたら目の上のたんこぶだったと思う。
 
大人に眉をひそめられるのを少し後ろめたく感じながら、僕はそれまで心の頼りにしていた「大人に褒められること」に代わる新しい価値観を探していた。
みんなより優等生ではない自分には何の価値があるだろうと。
 
次第にそれは、当時親にねだって買ってもらったエレキギターに向いていた。
 
 
自分がエレキギターを弾くことを誰かに見せたくて仕方がなくて、中学2年の時、友達を集めて3年生を送る会で演奏しようと提案した。
 
教師陣にはやはり反対されたけれど、その時に自分が責任をもってやらせるからとかけあってくれたのもパンク師匠だった。それが人生初のライブ。
 
中学卒業後、パンク師匠とは10年以上一度も会っていない。
近くの障害者施設に異動になったという話だけ少し耳に入って来たけれど。
 
僕は中学校を卒業し、公立の男子校に入学した。
 
高校に入ったらバンドをやろうと思っていたのに、その高校には軽音楽部が無く、自分で新しく軽音楽部を作ろうと思った。
理解のある先生を見つけ、興味を示してくれた生徒を集め、職員会議まで出してもらったが、保守的な学校だったからか、許可は降りなかった。
 
そこから、他校の生徒に誘われてバンドを始める高校二年の冬まで、長い孤独な帰宅部生活が始まった。
 
帰りの会が終わったらTSUTAYAでレンタル、また次の日帰りの会が終わったらTSUTAYAで返却してレンタル、ふた月に一回は渋谷のタワーレコード、と音楽漬けの日々が続いた。
帰りの時間が合わないので、放課後に同級生と過ごした記憶はほとんどなく、彼女もいなかったし、東京に遊びに行くのも1人だった。
 
今思い出すと切ないが、その時は音楽に夢中で全く寂しいと思わなかった。
(ただ、その生活が僕に考える時間を与えすぎたのか、その後は哲学科に進学することになる…)
 
その自由な生活の間に音楽の趣味はかなり広がった。
もし僕がそのままパンクバンドだけを聴き続けていたら、今頃はモヒカンをツンツンに逆立てて、鋲ベルトにボンテージパンツで暴れていたのかもしれない。
 
でも僕はセックスピストルズからラモーンズ、クラッシュ、ジャム、ダムド、デッドボーイズ、ストゥージズ、または最近に飛んでグリーンデイ、SAM41などパンクの王道ルートには何故か進まずに、「ポストパンク」というムーブメントに興味が移っていった。
 
ストパンクは孤独の音楽だ。
パンクの狂騒の後で1人に戻ったパンクロッカー達が、ダラっと重くギラついた音の中で社会と自分の関係性を問いかける、そんなジャンルである。
パンクが赤い炎ならポストパンクは青白い炎を持っている。
 パンクの火が色々な種類と色の花火に燃え移って、ニューウェーブと呼ばれるようになるまでの狭間の音楽だ。
 
そんな、はたから見ると暗いだけの音楽が当時の気分にやけにマッチして良く聴いていたのだと思う。
たぶんそれはパンク師匠の衝撃からのクールダウンで、自分のやりたい事を見つけられるまでの準備期間だった。
 
雨の日は電車で帰る。
僕の家へはローカル電車からさらにワンマン2両編成の超ローカル電車へと乗り換えなくてはならず、その間に誰もいないホームで20分の接続待ちをしなければいけなかった。
 
線路の向こう側に積み上がった資材の余りをボーッと見ながら1人で音楽を聴く毎日。
 
ある日、いつものように座って音楽を聴いていると、同年代の悪そうなブラジル人が隣に座ってきた。
俺の家には銃があるんだ、すごいだろうと言う。
今は持っていないことに安心しながら、絡まれた焦りを悟られないようにして、不良自慢を聞いているような聞いていないような態度をとっていると、そのブラジル人がレゲエの神様、ボブ・マーリィの話をし始めた。
すかさず食いついて話を聞くと、ボブ・マーリィは自分の師匠なんだと言う。
 
音楽の話で結局打ち解けて、彼は帰って行った。
 
僕の町には大きな工場がいくつもあり、たくさんのブラジル人が働き手としてやって来ている。
その子供達は新しい環境に馴染めないことも多い。
おそらく彼もそんな1人で、慰めてくれたのがボブ・マーリィの音楽だったのかもしれないなと思った。
 
パンク師匠がくれた詩は、大学受験が終わるまでお守りにしていた。
いつか再会して、また音楽の話がしたいなぁ。