パンク少年の作り方

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ロックのジャンルの中に、パンクロックというものがある。

ただ、パンクの場合はひとつの音楽ジャンルと言うよりむしろその文化や思想、態度にその本質があると言われている。

 

今でさえ派手な髪色やライダースジャケットや鋲のついたベルトを見て「パンキッシュ」と言ったりするけれど、元々パンクはそんなおしゃれなものではなく、当時のパンクス(パンクな人)たちが求めていたのは他人が「うわ…」と思うような、普通と逆の事を自ら進んですることだった。

 

というのもパンクロックは1970年代後半のまだ階級制度が文化的に残っていたイギリスの貧しい労働者階級がわざとボロボロの服を着て髪をツンツンに立ち上げ、下手な演奏で過激な歌詞を歌い熱狂したカウンターカルチャーで、プロミュージシャンがじっくりと時間をかけて作る大長編で完成度の高い音楽が溢れていたなか、お金がなくても、身分が低くても、汚くても、バカでも、男でも女でも、音楽をやったっていいんだと訴えかけたものであり、流行とはむしろ逆行していた。

それがまた流行になっているのは皮肉なものだけれど…

 

そんな価値観の逆転によって労働者階級を救ったパンクロックだが、教員の両親の元に生まれ、特に貧しいわけでもなく、かといって裕福でもない群馬県中流家庭で育った僕にとっても、それに触れたことは今考えてみればとても大きな事だった。

 

パンクロックを知ったのは中学2年の頃。
それまで僕は本当に「良い子ちゃん」で、小学校の学級代表に立候補してはそれを誇りに思うような、クラスによくいる嫌な奴だった。
 
小学校〜中学1年まで僕は大人をなんの疑いもなく信じ、憧れて、少しでも気に入られようと努力をしていた。
よく手を挙げ、ハキハキと話すことについて周りの生徒からは嫌味を言われることも多かったけれど、そんなことはこれっぽっちも気にしないほど大人に褒められることが嬉しかった。
 
 
中学2年の始業式、1人の美術教師がやってきた。ロン毛で口ひげをはやした若い先生だった。名前は仮にパンク師匠とする。
 
パンク師匠はかなり変わっていて、その噂はすでに教師界隈では広まっていたらしく同じく教師であった母親にはあまり関わらないようにと言われていた。
 
パンク師匠の授業では、絵を描く時間は基本的に大音量でジミ・ヘンドリクスを流し、ある日は自分のロゴマークを作ってみろと言われ、ある日は普通中学生ではやらない抽象彫刻をさせられ、時には隣の公園に連れていかれ全員でUFOを呼んだ。
ただどんなにおかしな事をさせられても、みんな子供なので「なんか面白いな」くらいにしか思っていなかったと思う。
 
車はBMW、パソコンは当時まだ出始めたばかりのMac。授業だけでなく外見や言動、態度も他の教師と比べ明らかに違うので校内では常に目立っていた。
 
ある日の朝礼で交通安全指導の担当だったパンク師匠は壇上に上がると、ほとんど喋らずにヘルメットを被ったキャベツとそのままのキャベツを竹刀でぶっ叩き、何も言わずに壇上から降りた。
 
ヘルメット被らないと死ぬよ、と言いたかったのだろうけど、それはもう騒然となった。
 
そんな調子なのでパンク師匠は教師に疎まれながらも生徒には人気があった。
 
 
最初の授業のことは今でもはっきりと覚えている。
ジミ・ヘンドリクスが流れる中、もはや自分の部屋だと思っているんじゃないかというくらい私物が置かれた美術室で花の写生をしていた。
僕は早々に描き上げ、したり顔で前へ持って行くと、パンク師匠はその絵を見るなり初対面の僕に、
 
「今までお前はこれで褒められてきたのかもしれないけど、俺は許さないからな。ちゃんと見て描けよ。」
 
と言った。
どうして自分が怒られたのがさっぱり分からなかった。
 
席に戻り、もう一度自分の絵を見ながら何を言われたのかを考えた。
 
言われてみれば僕は目の前の花なんか大して見ていない。
花瓶に刺さった花の色と形だけをざっと見て、ここはピンク、ここは緑だと勝手に決めつけ、花のことなんかよりも他の生徒よりも早く描き上げて褒められることしか頭になかった。
そんな事をじっと考えると、それは雑な下書きの上にのっぺりと絵の具がのったとてもつまらないものに見えた。
 
自分の予想とは違う対応をされたことに驚きつつもなぜかすんなりと納得してしまったので、その日は自分でもよく分からない感情をぐるぐると頭の中でめぐらせながら下校した。
 
 
パンクロックを知ったのはそれからもう少し後だった。
 
その頃はやたらとオシャレに気が回っていて、雑誌でLAD MUSICIANというブランドの服を見た。
デニス・モリスというフォトグラファーとコラボレーションしたTシャツで、題材はセックス・ピストルズという海外のバンド。
 
その異様な雰囲気の写真に興味が湧き、僕はパンク師匠なら何か知っているんじゃないかとある日の授業でそのバンドについて聞いてみると、師匠は喜んで彼らのアルバム「勝手にしやがれ」を貸してくれた。
自分も昔、パンクバンドのボーカルだったと。
 
僕があまりに興味を示すのでパンク師匠は嬉しそうだったけれど、今思えばその時、あれだけ愛らしい生徒に振舞って教師の顔色をうかがっていた僕はもういなくなっていた。
僕がその時アルバムを借りたのはもう大人を喜ばせたかったからじゃない。
 
 
アルバムをひとしきり聴いた後、当時WOWOWでやっていたNO FUTUREというセックス・ピストルズドキュメンタリー映画を見て僕はどっぷりとパンクにハマってしまい、親の目を盗んでは何度も映像を見た。
ビリビリに破かれた服。ジョン・ライドンの喉から絞り出すような声と鋭い目。血を流しながらベースを弾くシド・ヴィシャス。取り憑かれたように跳ねる観客。
英語なんて分からなかったけれど。
 
それから僕は人に気に入られようとしなくなった。
 
 
卒業前、最後の美術の授業でパンク師匠は自作の詩が書かれた紙を全員に渡した。
 
その内容を要約すると
 
「向かい風の吹き始めるところを探せ」
 
それが頭のどこかにまだ残っていて、今もバンド活動をしている気がする。