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パンク少年の作り方

回顧録
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パンクにハマったのは中学二年、まさに厨二病の時だった。それまでは本当に良い子ちゃんで、小学校の学級代表もやっていて、ぼくもそれを誇らしく思っていた。先生の言うことは絶対で、クラスによくいる、「みんなちゃんとしようよ!」系の嫌な奴だったと思う。

中学二年の始業式、1人の美術教師がやってきた。ロン毛で口ひげをはやした若いイケメンの先生だった。名前は仮にパンク師匠としよう。
パンク師匠の奇行の噂はすでに近隣の学校の教師界隈では広まっていたらしく、教師だった母親には、あまり関わらないようにと言われていた。
師匠の授業はだいぶ変わっていて、絵を描く時間は基本的に大音量でジミ・ヘンドリクスを流し、ある日は自分のロゴマークを作ってみろと言われ、ある日は普通中学生ではやらない抽象彫刻をさせられ、時には授業をしないで隣の公園に全員で遊びに行ってUFOを呼んだりした。車はBMW、パソコンはMacと他の教師と比べ見るからに目立っていて、それが面白かったのか生徒からは意外と人気があった。
ある日の朝礼で、交通安全指導の担当として師匠に何分間か話す時間が設けられた時には、ほとんど喋らずにヘルメットを被ったキャベツとそのままのキャベツを竹刀でぶっ叩いて帰って行った。そういう感じの人だった。

そんな師匠は案の定、他の教師陣と軋轢があったらしく、ある日長い髪をバッサリ切り、髭も剃っていた。その時は大人も色々あるのだなと思ったが、見た目がすっきりしただけで中身は全く変わっていなかったので、僕の中でのパンク師匠のパンク感はかえって増すことになった。

師匠の最初の授業でいきなり怒られた時のことは今でもはっきり覚えている。ジミ・ヘンドリクスをみんなで聴きながら花の写生をしていた。僕は誰よりも早く描き上げて、したり顔で師匠のところに持って行った。
師匠はその絵を見るなり、
「今まではこれで褒められてきたのかもしれないけど、俺は許さないからな。ちゃんと見て描け。」
と言われた。その時はなんで怒られたのがさっぱり分からなかったが、すぐにそれがどういうことか理解出来た。言われてみれば、僕は目の前の花なんか大して見ていなかった。置かれた花の形と色をざっと見て、ここはピンク、ここは緑、ここに葉っぱが伸びてハイ出来上がり、という具合で他よりも早く描き上げて「早く出来たね」と褒められることしか頭になかった。
師匠にしかられてからその絵を見ると、自分の絵は雑な下書きの上にのっぺりとした絵の具だけが塗られたとてもつまらないものだった。

師匠の存在について僕が抱いていた印象をパンクと言うのだと知ったのはそれからもう少し後だった。その頃はやたらとオシャレに気が回っていて、雑誌でLAD MUSICIANというブランドの服を見た。デニス・モリスというフォトグラファーとのコラボTシャツで、題材はセックスピストルズという海外のバンドだった。その異様な雰囲気の写真に興味が湧き、僕は師匠にセックスピストルズについて聞いてみた。師匠は喜んで彼らのアルバム、「勝手にしやがれ」を貸してくれた。師匠もまた、昔はパンクバンドのボーカルだったらしい。
そのアルバムをひとしきり聴いた後、当時WOWOWでやっていたNO FUTUREというドキュメンタリー映画を見て僕はどっぷりとパンクにハマってしまった。
親の目を盗んでは何度もその映画見た。時代は1970年代後半、イギリスはロンドンでの音楽的ルネサンス、大事件。
それまでの世の中では、音楽はプロのものというイメージが定着していて、スタジオミュージシャンがどんどん有名になり、作品も大作志向であった。所謂プログレッシブロックはそのいい例だ。そこに登場した労働者階級のパンクス達は音楽はみんなの物だと弾けない楽器を弾き、音痴に歌い、自分たちを縛る権力に中指を突き立て、テレビの前の僕につかみ掛かった。
そして晴れて僕はパンク少年になった。

その後の事は恥ずかしくて到底ここには書けないが、少なくとも師匠以外の大人の事を盲信することはしなくなった。
ただ、一方で僕は「大人に褒められること」に代わる新しい価値観を見つけなければいけなくなった。

卒業前の最後の授業でパンク師匠は自作の詩を全員にくれた。その内容とは…



次回に続く