ディスジャパ結成まで①

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8/3に僕がギターと時々ボーカルを務めるTHIS IS JAPANのnew mini Album    "DISTORTION"が発売されました。

前作は丁度2年前の8月、それからライブにライブを重ね、満を持してリリースした自信作です。

既にタワーレコードHMV、disk union、VILLAGE VANGUARD等に置かせていただいています。ぜひ聴いてみて下さい。

 

祝発売ということで今回はディスジャパ結成の時の話を。

前回の記事から1ヶ月…本当にやり出したことが続かない性格……

今シリーズはテンポよく書きたいです…

 

 

 

 

過去の記事から伝わる通り、僕は高校時代には、少なくとも音楽について気の合う友達が1人もいなかった。

当時読んでいたEYESCREAMという雑誌で特集して欲しい記事の募集があり、Sex Pistols/Public Image Limitedジョン・ライドン、と書いて応募して、その半年後くらいに本当に特集記事が出て大興奮しても、周りにジョン・ライドンを知っている人は1人もいなかったのでその興奮は誰にも話すことができなかったし、TSUTAYAの端で見つけたCDを聴いてこれいいな!と思っても、ニヤニヤしてはまた次のCDを探していた。

その時はそれが当たり前と思っていたけれど、きっと東京に行けば気の合う人がたくさんいるんだろうなと思って、進学は迷わず東京の大学を選んだ。

 

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入学してすぐサークルの勧誘イベントがあり、その期間中に学科の歓迎会もあった。

僕が入ったのは哲学科という変わったところだったので、他に比べて音楽好きは多かったのかもしれない。オリエンテーションで既に見つけていたディープパープル好きで松坂大輔似の大男とご飯を食べていると、向こうから先輩が2人現れた。

その先輩のうちの1人は、ドクターマーチンに膝が丸見えのダメージジーンズ、ラフな白いシャツにタータンチェックのネクタイ、金髪でロン毛と、まるでロックそのものを体現したような格好だった。(ディスジャパのメンバーではないです。)

 

なんかすごいぞと思いながらカートコバーンの話をしていると、明日勧誘のためのライブでジミヘンのコピーをするから見に来て欲しいという。

今思うとジミヘン好きなパンク師匠のお導きだったかもしれないが、その時はそんな事も気付かずにウキウキしながら翌日、松坂大輔と教えてもらった教室へと向かった。

 

華奢な僕を全く知らないジャンルに是が非でも勧誘しようとするムキムキの先輩達を掻き分けて階段をのぼり、小さな教室に入ると、時間を間違えたからか例のロックな先輩がGO!GO!7188のサンダーガールのギターソロを熱奏していた。

その先輩には後からジミヘンの時間に来なかったことをすごく咎められた。

 

ライブが終わった後、毎年恒例という花見に誘われ、先輩たちと話していると、どこからともなく泥酔したかなり年上のOBの人がやってきた。

「君はどんなバンドが好きなんだい?」そう訊かれてどう答えようかかなり迷った末に、僕は知らないと言われる不安を抑えてPublic Image Limitedですと答えた。

すると、

「高校生でPILを聴いてるなんて頭おかしいね。」

と言ってくれた。

頭おかしいはその時の僕には最高の褒め言葉だった。そのOBの先輩とはたった一言しか交わさなかったけれど、なぜか言いようのない安心感でいっぱいになった。

 

それから、他の軽音系のサークルすら見に行かずそのサークルに入る事を決めて、まだ入ってもいないのに翌日の勧誘ライブ2日目から、卒業するまで、全部のイベントに参加する事になる。

2009年の出来事。

 

長いので次回に続く…

 

 

 

 

四つ打ちと心臓

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https://youtu.be/vcS17lqphXQ

 

初めてクラブに行った時のこと。

数年前、代官山のAir石野卓球が出る日だった。

それまで、バンドとDJが一緒になったものや知り合いが企画した小さなイベントにしか行ったことがなく、プロのDJを見たのはそれが初めてだった。

 

深夜12時を過ぎた頃、ほとんど人のいない静かな代官山の路地を抜けて一見ただのレストランに見えるガラス張りの建物の中にある、なんともセキュリティの過剰なエントランスを通って地下に降りる。

 

ドアを開くとそこは天井の低い薄暗い空間になっていて、様々な年代の男女がひしめき合っている。みんなそれぞれ服装はバラバラ。立ち話をしたり、座ってお酒を飲んでいたり、いちゃいちゃしていたりふざけあっていたり、見たことのない光景だった。

人混みをすり抜けフロアまでたどり着くと、そこは一転してだだっ広く天井の高い空間。ほとんど真っ暗で、点滅するストロボがパッとついた瞬間だけ周りを確認できる。

人間の体より大きなスピーカーが四方に何個も積まれていて、天井は照明が何色も流れるようにアーチ状に光り、なおかつ奥の壁と手前の壁で合わせ鏡になっているのでその光が無限に何処までも続いていくように見える。

フロアにも人がたくさん。踊っている人、目をつぶってただ聴いている人、耳打ちで話をしている人、酔っ払いきってぐったりしている人が入り乱れ混沌としていて、その光景がストロボが切り替わるごとに少しずつ変わっていくのが分かった。

一番奥のステージには石野卓球。普通のライブハウスのステージよりも少し高いところにDJブースがあり、大きなスピーカーと機材に囲まれて何か作業をしている様子はDJというよりも大型戦艦の操縦士だ。

四隅のウーファーから

ボンッボンッボンッボンッボンッボンッボンッボンッと

ダークなベース音が鳴り続け、鼓膜ではなくお腹の下あたりに響く。その上のギラギラとした装飾音や カンッカンッカンッ という甲高い打楽器の音は境目が分からないほどゆったりと変わっていく。

最初は四方から聴こえるその爆音をうるさいと思ったが、せっかく来たのだからと真ん中の端の辺りまで進んで、壁にもたりかかりながら過ごすことにした……

 

10分経ち、20分経ち、いつの間にかその異様な音と光景を見よう、聴こうとする気持ちはどこかに消えてしまった。

バンドが好きな人でも、良いライブを見ている途中に没頭してしまって、ふと我に返って「今、自分は何も考えてなかったな」と思うことがあると思う。クラブはたぶん、その瞬間をずっと持続させる場所だ。ぼくはその音を聴いているというよりも音の中にいて、音と自分とその他全部が一緒になってどこかに行ってしまうような、そんな体験をした。

そこで聴いたクラブの四つ打ちは心臓の拍や、歩くテンポと一緒で人間が大昔から慣れ親しんでいるもの。どこまでも同じテンポで鳴り続けるベース音がぼくの細胞の奥の生命力に直接働きかけた…

……ドゥンッドゥンッドゥンッドゥンッドゥンッドゥンッドゥンッドゥンッドゥンッドゥン………

ここは宇宙の中で…全員のコア的なものが合体して大きいゴムまりになって…ボンボンボンボン跳ね回っているような気分…

 

嘘ではなく本当に、次に気が散って飲み物でも買いに行こうかなと思ったのはフロアに入ってから1時間45分後だった。それも、知らない人に肩を叩かれ、話しかけられたからだ。

初めてのトリップ体験を見ず知らずの人に邪魔されたことにイライラしつつもその場を終えて、ドリンクカウンターの辺りを歩き、それぞれの友人、恋人同志でだらだらする人達を眺めているとだんだん我に返ってきた。

 

1人で楽しもうとしてる方が少数派なのか…。 

初めてのオーバードライブ

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中1の時、姉の部屋に勝手に忍び込んでジュディマリのCDをこっそり盗んできた。少しマニアックな曲だけれど、BATHROOMは一度聴いて衝撃を受けてそのまま30回以上ループで聴きまくった。

 

https://youtu.be/js9KA-DArVc

 

それまでは曲を聴いてもギターとベースの違いも全然分からなかったけれど、この曲を気にして何度も聴くうちに少しずつそれぞれの楽器の音を聴き分けられるようになった気がする。

 

この曲も含めて、ジュディマリの曲は驚くほど複雑だ。ギターはずっとギターソロかよと突っ込みたくなるくらい終始リードを弾きまくっているし、ベースはずっとウネウネと動いていて、ドラムパターンもカチカチ切り替わる。歌の言葉数もメロディの上下も多い。

その時僕が弾いていたのはアコースティックギターだったので、エレキギターをひたすら弾きまくるジュディマリのギタリスト、TAKUYAは当時の僕にとって、とても衝撃的だった。

 

父親が大学でフォークソングサークルだったので、家にあったのはアコースティックギターだけだった。

僕は親にエレキギターを買って欲しいとねだったけれど、ロックにはほとんど興味がなくて、フォークソング一筋だった両親はなぜかエレキギターに偏見があり、音がうるさいとか、不良になるとか無茶苦茶な理由でずっと渋っていたが、半年くらい交渉してなんとか1万円の激安ギターをアンプと一緒に買ってもらえることになった。

 

当時、できたばかりだった群馬県太田市のイオンで初心者セットを買ってもらい、家に帰って早速繋いでみた。もしかしたら爆発でもするんじゃないかとドキドキしながらアンプとのスイッチを入れてそっと弾いてみたが、どうしてもあのギュイーンという音が出ない。シャリシャリと変な音が出るばかりだった。エレキギターの教本を見ると、どうやらエフェクターという別の物体が要るらしい。

すぐに近くのハードオフへ行ってジャンクで売られていたこれを買ってきた。今も愛用しているBOSS製品、OS-2だった。

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心臓も飛び出しそうなワクワクを抑えてペダルを踏むといつものあの音が部屋中に響き渡った。これだぁーー!!と心の中で叫んで、その日は親に怒られるまで弾き倒した。父親もよく知らないエレキギターを見るのが結局は嬉しかったようで、そのあと教本をプレゼントしてくれた。

 

それからジュディマリコロコロコミックくらい分厚いベストアルバムのバンドスコアを買って端から端までコピーした。部活が終わって家に帰ったらアンプの電源をつけて、弾けるようになった曲をコンポで流して合わせて弾くのがなにより楽しみだった。

一番好きなコードがCM7なのも、今思うとBATHROOMの最初のコードだ。

https://youtu.be/d0x1T3CgVBg

 

 

TAKUYAのギタープレイは名だたる海外のニューウェーブ系ギタリストと同じように、かなり変わっている。

 

というのも、エレキギターのバンド全体の中での役割にはバッキング(コード弾き)とリードがある。

演奏陣が4人のバンドなら、ギターがもう1人いて、1人がバッキング、もう1人がリードギターが普通。スリーピースバンドや、ジュディマリのような演奏陣が3人のバンドならギタリストは基本的にコード弾きやカッティングに徹して、ギターソロのところだけコード感をベースに任せてなんとかするのが普通だ。

ただTAKUYAの場合は、一曲の中でリードなのかコード弾きなのかアルペジオなのかカッティングなのかギターソロなのか速弾きなのかよく分からないような難しいフレーズをひたすら弾き続けて、なおかつボーカルの邪魔にならないばかりか、むしろツインボーカルのようにギターもボーカルに寄り添って歌っているように聴こえる。未だに不思議だ。むしろピアノに近いのかもしれない。

 

一方でセックスピストルズのギターは滅茶苦茶簡単で何の練習にもならなかったけれど、そのぶっきらぼうなフレーズが弾いていて楽しかった。

https://youtu.be/nwCrb2X4LLs

 

それまでエレキギターはただ、時々前に出てきてギュイーンとやるだけの楽器だと思っていた。でも色んなギタリストを見て分かったのは、弾く人によって好きなスタイルが違って、そのスタイルによって出る音も、使っている機材も、ギターの種類も、持ち方まで全く違うということだった。

 

エレキギターはそれが、なんでもありの音楽ジャンルであるロックを象徴してきたように、演奏者の思うままに作用する楽器だ。トランペットやバイオリンなどの他の楽器以上に。

 

対バンのギタリストを見ていても、自分と違う好みで、自分と違うルーツで音楽を聴いてきて、それが見ていて分かるから面白い。

みんなそうやって誰にも真似出来ないギタリストになっていく。

僕も誰にも真似出来ないギタリストになりたい!と思った。

ボロボロでピカピカなギター

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ギターがずっとボロボロでくすんでいたのでクリーナーと磨く用の布を買って久々に綺麗にした。こんな15万もする物をなんで僕はおざなりに扱ってしまうんだろうとキュッキュキュッキュと拭きながら考える。
 
 
ギタリストの中には、ギター自体に興味がない人もいる。
最初にそう思ったのは高校2年、アメリカのオルタナティブロックバンド、ソニックユースのこの動画を見た時だった。
 
 
TSUTAYAではニルヴァーナの先輩バンドとして紹介されていた。
この2人のギタリスト、サーストン・ムーアとリー・ラナルドは、ギターをバットで擦ったり、床に突き立てたり、放り投げたり、二本重ねてみたり、踏んでみたり、とにかくギターを粗末に扱う。
実際にインタビューでも、ギター自体には別に興味はなく、扱える楽器がたまたまギターだっただけだと言っている。2人にはギターを普通に弾きたくない理由があった。
 
ソニックユースは10作以上スタジオアルバムを出しているけれど、特にこの時期(1970年代後半〜80年代)の彼らにとって、ギターはただのノイズ発生装置だった。ギターのチューニングも曲によってバラバラで、ライブにはいつもそれぞれ10本以上のギターが持ち込まれる。その全部がボロボロでシールもベタベタに貼ってある。
 
パンクの、バカにしたような態度や下手くそでもエネルギッシュな演奏は破壊的だったけれど、曲については、しっかりとブルースの影響を受けた正統派で、特別に新しいジャンルのものではなかった。
一方でニューヨークにはノーウェーブというムーブメントがある。芸術運動の中にも退廃的で破壊的な、ダダイズムという運動があるが、ノーウェーブはそれと似ていて、ロックの音楽としての存在を根底から覆そうとする挑戦的なものだった。
 
当時の現代音楽家をはじめとしてノーウェーブに属するバンド達は、正確な音の並びから外れたものや音階がランダムで楽譜では表せないものなど、今までの音楽史には無かった未知の音を出そうとし、またどんな音でも音楽として迎え入れた。現代音楽の大家、ジョン・ケージが真っさらな楽譜を目の前に置いて、何も演奏しなかったのは、客が鼻をすする音や、演者のジャケットの裾が擦れる音など、日常にある全ての音を音楽としてしまうものだった。
 
エレキギターが大きい音を出す仕組みはピアノやトランペットなど、鳴っている音をそのままマイクで拾うものとは根本的に違う。木材に張られた弦の下にピックアップという四角い装置が設置されていて、その中には6本の鉄の棒がある。その周りに何重にもコイルが巻かれ、電磁誘導で弦の揺れを電気信号に変える。その電気信号をアンプという増幅装置でまたスピーカーの揺れに戻す。
ギターとアンプとの間にエフェクターという装置を噛ませれば、ギターから送られた電気信号を過剰に増幅して歪ませたり、二重に演奏させて広がりを持たせたりと、音をいくらでも操作することができるからエレキギターは電子楽器でもアコースティックな楽器でもない。エレキギターの本体はピックアップで、たまたまその上で弦が揺れれば何でもいい。
 
たぶん大昔なら、楽器は神聖なもので、壊してはいけなかった。伝統のやり方で師匠から教わった響きを綺麗に出す必要があった。でも今は何をしてもいい。蹴ったらどんな音が出るか試してもいいし、ギターの弦を引きちぎったって音楽だ。
超貪欲で、どれだけ食べてもお腹いっぱいにならないロックという音楽ジャンルのおかげでギタリストは自由になった。
 
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ソニックユースを聴いて僕はパンクの次にノーウェーブを知った。
ギターを踏んづけて、わざとチューニングがずれたまま弾いて、モーターをピックアップに近づけて……
 
ギターがボロボロになったら、またパンクに飽きた後と同じ悩みが出てきた。
自由になって何をしよう?
何で僕はギターを持って人前に?
 
ふと現実に戻って、僕はまだギターを磨いている。
たぶんギターはボロボロで光ってる方がいい。
 
 
 
 
 
 

カエターノ・ヴェローゾについて

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カエターノ・ヴェローゾを知ったのは、「ボサノバ界孤高の男」と書かれたCDの帯を見たからだった。ボサノバ界の孤高の男?これは聴くっきゃない。

実際、四ツ谷のブラジルレストラン、サッシペレレでも皆カエターノの名前を出した瞬間に口をそろえて彼は天才だと言う。お店の壁に飾られたブラジリアンミュージック歴代の英雄の彫刻にも、ボサノバの始祖であるアントニオ・カルロス・ジョビンジョアン・ジルベルト、ヴィニシウス・ジ・モライス達と堂々と肩を並べ彫られている。

カエターノは1942年にブラジルのバイーア州で生まれ、73歳になった今でもバリバリ現役のミュージシャンである。今は息子であるモレーノを自分のプロデューサーとして、彼より何十歳も年下のミュージシャンと共に4人のバンド編成で活動している。
もちろん、グラミー賞も取っている彼ほどにもなれば何もしなくても不自由なく生活出来るほどの印税収入があるだろう。普通、70歳にもなったら音楽家としては引退するか、懐メロの人としてかつてのファンを相手にゆったりと地方巡業して過ごしたいと僕だったら思う。それにもかかわらず彼は、彼の現役時代を知らない若者からも尊敬され、ブラジルの全国民に愛されて、なおかつ未だに新しい試みをしている。常に挑戦し続けるミュージシャンであると同時に、恐ろしいほどの求心力がある人だ。

ここまで読んで、既に大方の人に興味を失われているかもしれないが、めげずに彼の功績について書きたいと思う。
毎度の事ながら知識人からの批判を恐れず言うと、彼はブラジルにロックを持ち込んだ人物だ。ボサノバ界孤高の男といっても、ボサノバが誕生し、流行っていたのは1950年代中頃〜1960年代初頭で、カエターノはジョアン達の音楽を聴いて育ったボサノバの次世代にあたる。カエターノが青年期を迎えた頃には、ボサノバは地方の音楽であるサンバを源流としながらも、既に都会的なものとして洗練されきっていた。彼の出身地はリオ・デ・ジャネイロよりも北方の、一説にはサンバの発祥地とされるバイーアの出身であった。
1960年代中頃、ブラジルは軍事政権下にあった。表現を禁じる政府に反旗を翻し、彼はトロピカリアというムーブメントを牽引した。トロピカリアは人喰い運動とも呼ばれる。

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人喰いとは、あらゆる音楽ジャンルを吸収するロックミュージックにインスピレーションを得て、外国の文化を大いにブラジルに持ち込み、自由な表現活動を産もうとするもので、音楽に限らずダンスや美術など多岐にわたって様々な分野のアーティストがこの運動に参加していた。もちろんトロピカリアも検閲の対象となり政府からは厳しく監視された。彼はそれに反抗し、「プロイビーダ・プロイビード(禁じる事を禁じる)」という歌を作り、舞踏やライブを交えた集会を催し、盟友ジルベルト・ジルとともにその運動の中心として活動していたが、結局、政府から目をつけられた2人は1969年にイギリスへ亡命することとなる。

イギリスでも現地のロックを吸収し、皮肉の様に歌い慣れない英語で故郷を歌った。また、1972年に帰国してからも検閲を逃れるためか、比較的前衛的な作品を作ることとなる。

彼の献身によりその後のブラジルの音楽は盛り上がりを見せ、MPB(ムジカ・ポプラール・ブラジレイラ)という日本で言うところのニューミュージックのような多種多様なポップスが生まれた。

彼は何十枚もアルバムを出しているが、自分のルーツであるバイーア州の伝統的なリズムを取り入れながら、ボサノバ、サンバはもちろん、レゲエ、ロック、インド音楽、スペイン民謡などあらゆる音楽ジャンルが交錯し、自由に散りばめられている。

彼は頭からつま先までただひたすらに音楽人間だ。彼の人生とぴったり並行するように、一枚一枚のアルバムが生まれ、その時代時代で彼を取り巻く環境、人間関係と、そこから生まれる彼の心情、興味すべてが音楽で分かる。いつまでも歌うように話し、踊るように歩く人だ。

どの曲も選べないので、あえて彼の曲ではなく、ブラジルの第二の国歌と呼ばれる「ブラジルの水彩画」を表現活動が禁じられている真っ只中で悲しくも暖かくギター1本で歌うカエターノで締めたい。





ポストパンク少年の作り方

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前回の続き〜
 
 
僕がパンクロックにのめり込んでいた時期はいわゆる思春期と重なった。
 
生活態度は変わらずいたって真面目で不良という訳でもないのに、大人が困るような発言をわざとしたりして、教師からしたら目の上のたんこぶだったと思う。
 
大人に眉をひそめられるのを少し後ろめたく感じながら、僕はそれまで心の頼りにしていた「大人に褒められること」に代わる新しい価値観を探していた。
みんなより優等生ではない自分には何の価値があるだろうと。
 
次第にそれは、当時親にねだって買ってもらったエレキギターに向いていた。
 
 
自分がエレキギターを弾くことを誰かに見せたくて仕方がなくて、中学2年の時、友達を集めて3年生を送る会で演奏しようと提案した。
 
教師陣にはやはり反対されたけれど、その時に自分が責任をもってやらせるからとかけあってくれたのもパンク師匠だった。それが人生初のライブ。
 
中学卒業後、パンク師匠とは10年以上一度も会っていない。
近くの障害者施設に異動になったという話だけ少し耳に入って来たけれど。
 
僕は中学校を卒業し、公立の男子校に入学した。
 
高校に入ったらバンドをやろうと思っていたのに、その高校には軽音楽部が無く、自分で新しく軽音楽部を作ろうと思った。
理解のある先生を見つけ、興味を示してくれた生徒を集め、職員会議まで出してもらったが、保守的な学校だったからか、許可は降りなかった。
 
そこから、他校の生徒に誘われてバンドを始める高校二年の冬まで、長い孤独な帰宅部生活が始まった。
 
帰りの会が終わったらTSUTAYAでレンタル、また次の日帰りの会が終わったらTSUTAYAで返却してレンタル、ふた月に一回は渋谷のタワーレコード、と音楽漬けの日々が続いた。
帰りの時間が合わないので、放課後に同級生と過ごした記憶はほとんどなく、彼女もいなかったし、東京に遊びに行くのも1人だった。
 
今思い出すと切ないが、その時は音楽に夢中で全く寂しいと思わなかった。
(ただ、その生活が僕に考える時間を与えすぎたのか、その後は哲学科に進学することになる…)
 
その自由な生活の間に音楽の趣味はかなり広がった。
もし僕がそのままパンクバンドだけを聴き続けていたら、今頃はモヒカンをツンツンに逆立てて、鋲ベルトにボンテージパンツで暴れていたのかもしれない。
 
でも僕はセックスピストルズからラモーンズ、クラッシュ、ジャム、ダムド、デッドボーイズ、ストゥージズ、または最近に飛んでグリーンデイ、SAM41などパンクの王道ルートには何故か進まずに、「ポストパンク」というムーブメントに興味が移っていった。
 
ストパンクは孤独の音楽だ。
パンクの狂騒の後で1人に戻ったパンクロッカー達が、ダラっと重くギラついた音の中で社会と自分の関係性を問いかける、そんなジャンルである。
パンクが赤い炎ならポストパンクは青白い炎を持っている。
 パンクの火が色々な種類と色の花火に燃え移って、ニューウェーブと呼ばれるようになるまでの狭間の音楽だ。
 
そんな、はたから見ると暗いだけの音楽が当時の気分にやけにマッチして良く聴いていたのだと思う。
たぶんそれはパンク師匠の衝撃からのクールダウンで、自分のやりたい事を見つけられるまでの準備期間だった。
 
雨の日は電車で帰る。
僕の家へはローカル電車からさらにワンマン2両編成の超ローカル電車へと乗り換えなくてはならず、その間に誰もいないホームで20分の接続待ちをしなければいけなかった。
 
線路の向こう側に積み上がった資材の余りをボーッと見ながら1人で音楽を聴く毎日。
 
ある日、いつものように座って音楽を聴いていると、同年代の悪そうなブラジル人が隣に座ってきた。
俺の家には銃があるんだ、すごいだろうと言う。
今は持っていないことに安心しながら、絡まれた焦りを悟られないようにして、不良自慢を聞いているような聞いていないような態度をとっていると、そのブラジル人がレゲエの神様、ボブ・マーリィの話をし始めた。
すかさず食いついて話を聞くと、ボブ・マーリィは自分の師匠なんだと言う。
 
音楽の話で結局打ち解けて、彼は帰って行った。
 
僕の町には大きな工場がいくつもあり、たくさんのブラジル人が働き手としてやって来ている。
その子供達は新しい環境に馴染めないことも多い。
おそらく彼もそんな1人で、慰めてくれたのがボブ・マーリィの音楽だったのかもしれないなと思った。
 
パンク師匠がくれた詩は、大学受験が終わるまでお守りにしていた。
いつか再会して、また音楽の話がしたいなぁ。
 

パンク少年の作り方

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ロックのジャンルの中に、パンクロックというものがある。

ただ、パンクの場合はひとつの音楽ジャンルと言うよりむしろその文化や思想、態度にその本質があると言われている。

 

今でさえ派手な髪色やライダースジャケットや鋲のついたベルトを見て「パンキッシュ」と言ったりするけれど、元々パンクはそんなおしゃれなものではなく、当時のパンクス(パンクな人)たちが求めていたのは他人が「うわ…」と思うような、普通と逆の事を自ら進んですることだった。

 

というのもパンクロックは1970年代後半のまだ階級制度が文化的に残っていたイギリスの貧しい労働者階級がわざとボロボロの服を着て髪をツンツンに立ち上げ、下手な演奏で過激な歌詞を歌い熱狂したカウンターカルチャーで、プロミュージシャンがじっくりと時間をかけて作る大長編で完成度の高い音楽が溢れていたなか、お金がなくても、身分が低くても、汚くても、バカでも、男でも女でも、音楽をやったっていいんだと訴えかけたものであり、流行とはむしろ逆行していた。

それがまた流行になっているのは皮肉なものだけれど…

 

そんな価値観の逆転によって労働者階級を救ったパンクロックだが、教員の両親の元に生まれ、特に貧しいわけでもなく、かといって裕福でもない群馬県中流家庭で育った僕にとっても、それに触れたことは今考えてみればとても大きな事だった。

 

パンクロックを知ったのは中学2年の頃。
それまで僕は本当に「良い子ちゃん」で、小学校の学級代表に立候補してはそれを誇りに思うような、クラスによくいる嫌な奴だった。
 
小学校〜中学1年まで僕は大人をなんの疑いもなく信じ、憧れて、少しでも気に入られようと努力をしていた。
よく手を挙げ、ハキハキと話すことについて周りの生徒からは嫌味を言われることも多かったけれど、そんなことはこれっぽっちも気にしないほど大人に褒められることが嬉しかった。
 
 
中学2年の始業式、1人の美術教師がやってきた。ロン毛で口ひげをはやした若い先生だった。名前は仮にパンク師匠とする。
 
パンク師匠はかなり変わっていて、その噂はすでに教師界隈では広まっていたらしく同じく教師であった母親にはあまり関わらないようにと言われていた。
 
パンク師匠の授業では、絵を描く時間は基本的に大音量でジミ・ヘンドリクスを流し、ある日は自分のロゴマークを作ってみろと言われ、ある日は普通中学生ではやらない抽象彫刻をさせられ、時には隣の公園に連れていかれ全員でUFOを呼んだ。
ただどんなにおかしな事をさせられても、みんな子供なので「なんか面白いな」くらいにしか思っていなかったと思う。
 
車はBMW、パソコンは当時まだ出始めたばかりのMac。授業だけでなく外見や言動、態度も他の教師と比べ明らかに違うので校内では常に目立っていた。
 
ある日の朝礼で交通安全指導の担当だったパンク師匠は壇上に上がると、ほとんど喋らずにヘルメットを被ったキャベツとそのままのキャベツを竹刀でぶっ叩き、何も言わずに壇上から降りた。
 
ヘルメット被らないと死ぬよ、と言いたかったのだろうけど、それはもう騒然となった。
 
そんな調子なのでパンク師匠は教師に疎まれながらも生徒には人気があった。
 
 
最初の授業のことは今でもはっきりと覚えている。
ジミ・ヘンドリクスが流れる中、もはや自分の部屋だと思っているんじゃないかというくらい私物が置かれた美術室で花の写生をしていた。
僕は早々に描き上げ、したり顔で前へ持って行くと、パンク師匠はその絵を見るなり初対面の僕に、
 
「今までお前はこれで褒められてきたのかもしれないけど、俺は許さないからな。ちゃんと見て描けよ。」
 
と言った。
どうして自分が怒られたのがさっぱり分からなかった。
 
席に戻り、もう一度自分の絵を見ながら何を言われたのかを考えた。
 
言われてみれば僕は目の前の花なんか大して見ていない。
花瓶に刺さった花の色と形だけをざっと見て、ここはピンク、ここは緑だと勝手に決めつけ、花のことなんかよりも他の生徒よりも早く描き上げて褒められることしか頭になかった。
そんな事をじっと考えると、それは雑な下書きの上にのっぺりと絵の具がのったとてもつまらないものに見えた。
 
自分の予想とは違う対応をされたことに驚きつつもなぜかすんなりと納得してしまったので、その日は自分でもよく分からない感情をぐるぐると頭の中でめぐらせながら下校した。
 
 
パンクロックを知ったのはそれからもう少し後だった。
 
その頃はやたらとオシャレに気が回っていて、雑誌でLAD MUSICIANというブランドの服を見た。
デニス・モリスというフォトグラファーとコラボレーションしたTシャツで、題材はセックス・ピストルズという海外のバンド。
 
その異様な雰囲気の写真に興味が湧き、僕はパンク師匠なら何か知っているんじゃないかとある日の授業でそのバンドについて聞いてみると、師匠は喜んで彼らのアルバム「勝手にしやがれ」を貸してくれた。
自分も昔、パンクバンドのボーカルだったと。
 
僕があまりに興味を示すのでパンク師匠は嬉しそうだったけれど、今思えばその時、あれだけ愛らしい生徒に振舞って教師の顔色をうかがっていた僕はもういなくなっていた。
僕がその時アルバムを借りたのはもう大人を喜ばせたかったからじゃない。
 
 
アルバムをひとしきり聴いた後、当時WOWOWでやっていたNO FUTUREというセックス・ピストルズドキュメンタリー映画を見て僕はどっぷりとパンクにハマってしまい、親の目を盗んでは何度も映像を見た。
ビリビリに破かれた服。ジョン・ライドンの喉から絞り出すような声と鋭い目。血を流しながらベースを弾くシド・ヴィシャス。取り憑かれたように跳ねる観客。
英語なんて分からなかったけれど。
 
それから僕は人に気に入られようとしなくなった。
 
 
卒業前、最後の美術の授業でパンク師匠は自作の詩が書かれた紙を全員に渡した。
 
その内容を要約すると
 
「向かい風の吹き始めるところを探せ」
 
それが頭のどこかにまだ残っていて、今もバンド活動をしている気がする。